歌を歩く 〜風の靴をはいて〜

トルコ ・・・・2007年5月20〜29日  トルコ(イスタンブール・アクヒサール)日本文化祭
その1 その2 その3  
5月24日
午前中はイスタンブールの市内観光。前回行かなかった考古学博物館・装飾タイル博物館に行く。博物館の中で古代人の呼吸を想像しながら大理石の彫刻などを見ている時間が私は好きなのだ。トプカプ宮殿の前の広場で、イスタンブール市が「日本文化祭のお礼に」と軍楽隊の演奏をプレゼントしてくれた。オスマントルコの勇敢な音楽は、モーツアルトやベートーベンにも影響を与えたものだが、我々のためにとは感激ではないか。
午後、トルコで人口2番目のエーゲ海を臨む都市イズミールから北西へバスで1時間半位の地方都市アクヒサールヘ。ぶどう畑、オリーブ畑が広い大地に続いていた。この日からホームステイを3泊する。トルコの家庭料理をいただく。それは美味しかったのだが、お酒が出なかったのが残念。トルコ料理といえば、街角のレストランで「牛の脳みそのスープ」を食した。こってり、濃厚。うまさは賛否両極端。私は気に入った方。
5月25日  私立アクヒサール学園で舞台公演とワークショップ
午後、小学校5年制・中学校3年制の生徒たちが一緒に学んでいる学校の300人くらいのホールは、父兄なども来ていっぱいになった。
会場の雰囲気を見て、とっさに1曲目を「ひょっこりひょうたん島」で始めてみようと歌いだした。生徒たちは元気よく楽しげに手拍子してくれた。トルコ語での「幸せなら手をたたこう」も、歌っていく途中で、どんどん速くしていったら面白そうと即興的にテンポを速くしてみた。遅れまいと一緒に一生懸命歌ってくれるのだった。通訳などサポートしてくれたアンカラ大学のエルギュル君が、「生徒たちは、今日の藤本さんで日本人のイメージを捉えるでしょう」と。
トルコでも最近は、子どもたちのいじめや不登校が社会問題化していると、あとでガイドのラーレさんから説明を受け、旅人では知ることの出来ない奥深い問題がこの国でもたくさんあるのだなと思う。
夕刻 日本庭園開会式。アクヒサール市と協会が共同で製作した世界でもおそらく唯一の大理石での枯山水の庭園が、今回の文化祭に合わせ完成。地元高校生の民族舞踊に私はついうっとり。

5月26日  昼 日本文化祭のワークショップ
私は日中時間があったので、アクヒサールの町を散歩する。落ち着いた町並み、出会う人たちがにっこり挨拶してくる。私も「メルハバ」と挨拶する。こんなひと時が海外を旅していて一番いいなと思うときだ。
夜 「アクヒサール文化会館」で舞台公演。
トルコでのステージにも少し慣れ、会場の雰囲気を味わいながら歌うことが出来た。地元の祭りのイベントが私たちの後に同じステージで行われることもあってか、後半頃には二階席もビッシリ埋まり、立ち見客も出て、会場入り口の扉も半開きで溢れんばかり。1000人くらいの観客だったかもしれない。私は歌い終わったあとの楽屋で、着物ショーに出演するトルコの女性たちと片言の英語で話し、みんなで記念撮影をし、同じステージをやってきたなぎさ太鼓や武術の人たちと和やかな時間をすごした。

5月27日  雨のためチャウラク祭り(オリーブ祭り)中止。イスラム寺院など観光。
夜 ホームステイ受け入れのAKSEK主催お別れパーティー。私はステージに浴衣姿で登場。これぞ日本、と演歌「惜別の歌」を切々と歌い始め何曲か歌った。アルコールもほどよく回り、しだいにダンスパーティーとなる。
トルコの人たちの歌、踊りに対抗し、日本のみんなで一緒になり「東京音頭」と「上を向いて歩こう」などを歌い踊った。何か妙な日本人としての連帯感のようなものを感じた。途中ギターの弦が2本切れ、会場の玄関先で弦の張替えとチューニングをしていると、ひとりの若者が近づいて来て「ヒロシマ」「ヒロシマ」という。トルコへ旅立つ直前に知ったことなのだが、トルコの偉大な詩人ナーズム・ヒクメットが書いた「ヒロシマの少女」という詩(原爆で死んだ少女が、核兵器反対の署名を求めて人家の扉を叩いているという内容)が歌になり、広く歌われているという。その「ヒロシマ」を歌ってくれと言っているのだなとすぐにわかったが、「パルドン(ごめん)」。せっかくのリクエストに対し、私はいみじくも歌を歌う日本人として少し恥ずかしいような気分だった。
トルコでの歌を考えるとき、帰国してからもそのことが引っかかってくるのである。
5月28日 アクヒサールからベルガマ遺跡観光
5月29日 帰国

「王様なら誰もが欲しがった都 海を染めて日が沈む
旅人なら誰もがあこがれの都 ここはイスタンブール」
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